スケジュール Schedule

1996.10

1996.10
1996年 -秋- (後編)



リサイタル イン パリ

10月のパリは実に美しく、また魅力的で、私はこのままパリにいたいと何度思ったことでしょう。プラタナスやマロニエが同じパリでも右岸のコンコルド広場やチュイルリー公園と左岸のリュクサンブール公園やエッフェル塔周辺では微妙に変わっており、その色彩の鮮やかさに私は思わず足を止め、落ち葉を拾い集め、心のシャッターを何度も押していました。

 秋、木の葉が色づく季節。ショパンコンクールから1年の月日が流れました。コンクールの入賞によって私は多くの演奏の場を提供され、桐朋学園研究科を終了と同時にデビューさせていただきました。ワルシャワフィルハーモニーとの台湾・日本ツアー、サントリー大ホールでのデビューリサイタル、日本フィルとの協演、先月ワルシャワでのリサイタルなど、この1年の間に約50箇所での公演で私は貴重な経験をたくさん積まさせていただきました。どの場所での演奏も私にとっては忘れ難く、こうした経験をひとつ重ねるごとに、私はコンクール入賞者への授賞式の後に行われたパーティーで多くの審査員の方々から贈られた言葉を思い出します。「コンクールへの入賞はピアニスト人生のはじまり。今日から何年、時には何十年かけて音楽の喜びを全世界に伝える努力が始まるのです。」こうしたお言葉をいつも胸にして1年が過ぎた今、演奏は「木を植えること」に似ていると思うようになりました。植えるだけでなく、育てること。そして緑が与える憩い・潤い・・・

in pari
サル・プレイエルには3つのホールがあり私のリサイタルはサル・ショパンというショパンの名をとったホールで行われました。私が定期的に指導を受けているジャック・ルヴィエ先生やコンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)で彼のアシスタントであるブノワ先生、在仏日本大使、OECD大使、英国やカナダ大使館の館員やご家族、三菱商事などの在フランス日本企業の方々も大勢ご来聴いただき、約600人を収容するホールはほぼ満席となりました。パリでのプログラムはフランス音楽とショパンを半々にというアイデアもありましたが、あえてすべてショパンの作品から選んでみました。

 

このリサイタルが決まった際に、私が願ったことはぜひともルヴィエ先生に聴いていただきたいということでした。ルヴィエ先生には大学3年の秋から定期的に指導を受けているのですが、先生の励まし無しには今日の私は存在しなかったことでしょう。

 1年前はちょうどショパンコンクールの3次予選だったその日、私はさまざまな思いを胸に気持ちよく演奏することができました。聴衆の方々の心に憩い・潤いを与えることができたでしょうか...



古都クラコフへ

 11月に入ってようやく休みがとれた私は、ステファンスカ先生の故郷、古都クラコフへ旅立ちました。ポーランドの現在の首都はワルシャワですが今から400年前はクラコフが首都として栄えていました。当時はヨーロッパ各地から優れた建築家が招かれこの街の創造に携わりました。そして、多くの建築のなかでも歴代の王や権力者達は教会の建築を好み、その結果として現在でも100以上の多様な形式の教会が残っています。また、第2次大戦においても街が破壊される寸前にナチスの支配から解放されたため、教会だけでなくそれを取り巻く古い街並みも残っています。街を歩いていても日本人どころか東洋人の姿を見かけることもまれで、ワルシャワ、パリのリサイタルを終え、今後の演奏活動の充電を必要としている私には願ってもない環境なのです。

 クラコフでの8日間は、1日8時間の練習時間をとってもさらに充分な自由時間を得られた願ってもない環境でした。毎日朝8時から12時までは音楽学校で、2時から6時までは音楽学生寮にあるホールでのピアノを借りて練習し、6時半からの夕食後は8時から10時まで別の音楽学校という一見ハードに思える時間割りですが、実際は疲れを感じることもなく毎日が大変充実していました。

 帰国前に受けたステファンスカ先生のレッスンでは技術的なことよりも、ピアニストとして生きること演奏すること。先生の経験談なども含めて、そうした精神面のアドヴァイスをいただき今後の演奏活動に大きな支えを得たように感じました。わずか8日間の滞在でしたが、この充電で私はデビュー前の自分を取り戻したように感じました。単なるピアニスト宮谷理香でなく、人間宮谷理香がピアノを通して自分を表現する...

 より深い音を求める旅はまだまだ続いていくのです。

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