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1998.7.25

1998.7.25
リカ・ミヤタニの誕生 Vol.5


先生との出逢い ~ピオトル・パレチニ -1992年夏-


私がプロとしてデビューするまでの道を思うとき、大勢の先生方との出逢いを除いては考えられません。これから数回にわたり、この誕生のコーナーで先生方との出逢いについてお話ししたいと思います。 ピオトル・パレチニ 51才
ポーランドを代表するピアニストで、ヨーロッパはもちろんのこと世界各国で演奏活動を行い、日本にも度々訪れている。

paleczny
 1992年の夏、大学の3年生だった私は、スイスのイタリア語圏にある風光明媚な湖畔の町、ルガーノで開催された夏期セミナーでパレチニ氏と出逢いました。
出逢いの夏の印象は、きっと互いにそれほど大きなものではなかったと思います。私は自分のレパートリーを弾き、彼はアドヴァイスを与えました。それは日本でもよくある外国人の先生による公開レッスンと同じような光景でした。




そんなパレチニ氏が師として私に大きな影響を与え始めるのは、翌93年の夏からのことでした。そしてその影響は、彼から直接ではなく、彼以外のピアニストや教授からのレッスンという間接的なものから始まりました。
つまり、パレチニ氏のアドヴァイスを受け入れた私の演奏が、それまで私が今一つ応えられなかったハリーナ・チェルニー=ステファンスカ女史やアンジェイ・ヤシンスキ教授の要求を満たすものになっていたのです。

 それがどのようなものかを音楽的、技術的ではなく分かりやすく例えれば、握手と目の輝きの関係、関連とでもいうのでしょうか。握手を演奏における筋肉の動きに、目の輝きを心の表情に置き換えていただければどうでしょう。
私たちの住む国では握手の習慣が日常的ではないので、この欧米的な礼儀作法によって相手に充分な印象や存在感を与えにくいのです。握手のときの力加減、そのときの目での表情。パレチニ氏は、私がそれまで特に重要視していなかった、また得る機会のなかった、ステージを離れたところでの「プロのピアニストとしてのマナー」というアドヴァイスから始めてくれた唯一の先生であり、そして彼は本物の、世界中のステージを経験した「ピアニスト」だったのです。

 ピアニストによるピアニストを目指す者へのアドヴァイスは、得られる環境があってこそ実現する。そんな、木の葉が流れ、石が沈むような当たり前のような、決して難しくないと思われる環境が、それまでの日本での私には存在しませんでした。また考えることすら無かったのです。
日本では、現役のピアニストでありながら教授の肩書きを持つ人はさほど多くありません。生徒を持つことで拘束される時間、失われる練習時間や責任を計りにかけたとき、どうしても自分の演奏に重きを置いてしまうのは仕方がないことなのかもしれません。
 私と同年代でありながら、演奏活動と同時にこうした指導にも熱心に取り組んでいる日本人ピアニストがいます。過密な演奏スケジュールの中でその両立は奇跡的でもあり、たいへん感心させられます。彼やパレチニ氏に出会えたことで大きな飛躍のきっかけを掴んだ人がたくさんいることと思います。

今思い返してみますと、パレチニ先生のアドヴァイスをもう一歩深く理解できるようになったのは、同じショパンコンクール入賞者という肩書きと共に、プロとして活動を始めてからでした。
特に若い時期、こうした本物のピアニストからのアドヴァイスを得られるかどうかは、国際コンクールを目指し、コンサート・ピアニストを目指す際には、とても重要なポイントのように私は思います。

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